『一万円札のあの人はどんな人?』【PART1】学校では教えきれない福沢諭吉の20代までの江戸歴史秘話ヒステリー
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- 2024年5月3日
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更新日:2024年5月30日

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の武士、啓蒙思想家、教育家。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。
もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的となっている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

↑写真 福澤諭吉旧居
概説
慶應義塾(旧蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。
経歴
出生から中津帰藩、長崎遊学

↑生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑(大阪府大阪市福島区福島一丁目。ほたるまち内、朝日放送グループホールディングス社屋前)Inoue-hiro - Photograph taken by myself (本人撮影), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3994238による

↑福澤諭吉旧居(大分県中津市)
諭吉という名は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことに由来する。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。
詳細は「関連系図」を参照
友米の孫である父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にありながら、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒学に通じた学者でもあった。百助の後輩には近江国水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。

そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。
なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたので諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

↑長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書 長崎の手彩色絵葉書 - www.ehagaki-nagasaki.com, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6823688による
黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。
山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆から没収した砲術関係の書物が保管所蔵されていた。山本はそうした砲術関係の書籍を人に貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉も閲読を許されて鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。

その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫・菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。
中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。
適塾時代(大坂)

↑大阪市福島区の福澤諭吉生誕の地記念碑
しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者・緒方洪庵の「適塾」で学ぶこととなった(旧暦3月9日(4月25日))。

その後、諭吉が腸チフスを患うと、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。
この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)
と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復する。そして。一時中津へ帰国する。
安政3年(1856年)、諭吉は再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。
学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)、諭吉は最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。
適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。
また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて長崎で購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則[要曖昧さ回避])を初めて知ることになる。
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』福澤諭吉 クリエイティブコモンズライセンスに基づく
記事情報確認・来歴点検等:公益社団法人日本証券アナリスト協会認定 資産形成コンサルタント / 日本証券業協会 一種外務員資格者 / 日本FP協会認定AFP(Affiliated Financial Planner)技能士 桜庭史門